アポリネイルって何?

アポリネール
1880年8月26日、「ミラボー橋」などで知られる詩人アポリネールがイタリア のローマで生まれました。
主としてフランスで活動したため一般にはフランス風にGuillaume Apollinaire と呼ばれていますが、実際はポーランド系の人で本名は Wilhelm Apollinaris de Kostrowitzky といったそうです。(実はこの本名も不確実。彼の前半生 は、どうもよく分からないようです。)
3人兄弟の長男。ローマからモナコ、ニースと移りながら学校を出た後1900 年にパリに出てきて銀行関係の仕事についたようです。
仕事の傍ら文学活動 を行い、やがて1905年、パブロ・ピカソと知り合います。
このあとピカソのアトリエ「洗濯船」で多くの芸術家と交流することになる のですが、中でも重要なのが1907年、このアトリエにやってきた画家マリー ・ローランサンでした。
この時ローランサンは22歳、アポリネールは27歳。二人は運命的な恋をしま す。
まだ画家として自立していなかったローランサンをアポリネールは励ま し、助言し、精神面から芸術家としての力を開眼させていきました。
この恋 は6年間続きました。
しかしローランサンはやがて「洗濯船」のメンバーたちが熱心に描いていた キュビズムの絵に違和感を覚えるようになります。
更には恋愛期間が長く って、アポリネールとの関係もマンネリ化してきつつありました。
そんな最中に、ひとつの事件が起きます。
1911年8月22日ルーブル美術館から名画「モナリザ」が盗まれるという事件が 起きたのですが、その捜査が行われていた中で、アポリネールの秘書をして いた男がルーブル美術館から彫像を盗み出して売り飛ばしていたということ が発覚します。
このため、この男はモナリザに関しても知らないかということを警察から徹底的に追求され、アポリネールについても、男の仲間なのではないかと疑われ、長期間警察に勾留されるはめになりました。
結局、男はモナリザ事件には関与しておらず、アポリネールは全くの無実だ ったのですが、この事件をきっかけにローランサンは彼への恋が完全に覚め てしまいました。
そして彼が警察から戻ってくると同時に訣別を宣言します。

アポリネイルの「ミラボー橋」は1913年の作品。これはセーヌ川にかかる 鉄製の橋の名前です。
 ミラボー橋

ミラボー橋の下をセーヌは流れる

そして私たちの愛も 思い出さねばならないのか?

悲しみの後に必ず喜びが来たことを
夜が来て、鐘が鳴り 日々は去り、我は一人。

手に手を取り
顔に顔を合わせ
私たちの腕が作る橋の下を

永遠の微笑みが流れる間に
水は疲れていった

夜が来て、鐘が鳴り
日々は去り、我は一人。

愛は流れ行く水のように去っていく

愛は人生は遅すぎるかのように

そして望みは無理であるかのように去っていく

夜が来て、鐘が鳴り 日々は去り、我は一人。

日々が去り、週が去って行くのに

時は去らず 愛は戻らない

ミラボー橋の下をセーヌは流れる

夜が来て、鐘が鳴り 日々は去り、我は一人。

句読点を使わないという画期的な手法を使った作品集「アルコール」の特徴 がこの詩にも出ています。
さて、この別れをきっかけにしてローランサンは精神的にも技術的にも画家 として一人立ちしてしまいました。
しかしアポリネールはどうしても彼女のことを忘れることができず、終生、 彼女を慕い続けました。
そしてこの別れから5年後、彼はスペイン風邪のため 38歳の若さで死去しますが、その枕元にはローランサンが描いた名作「アポ リネールと友人達」が架けられていました。